タイトルのような話を目にしたことがあります。
学校の場合、症状によって特別支援学級のように住み分けさせていることもありますが、これってどうなんだろう?と思うことがあります。
どこからどこまでで住み分けしているのか?はわかりませんが、発達障害は厳密には凹凸症候群・・・得意と苦手の差が激しいという感じで障害と呼ぶにはちょっと違うような気がします。
なので本当に発達障害という言葉は大嫌いですし、なくなって欲しいですね・・・
私の時代は「知的な遅れ」、「勉強についていけない」、「授業中でも落ち着きがなく周りを困らせている」というようなことがなければ普通学級だったのかもしれません。
私もそれらが問題なかったので普通学級で済んでいましたが、極度の運動音痴で手先の不器用さ、場面緘黙のような症状もあったので今の時代の子供だったら特別支援に住み分けられていたかもしれません。
今まで様々な方と出会いましたが、健常者であろうと多かれ少なかれ誰しも発達障害の特性は何かしら持っているのでは?と思うことが多々あります。
忘れ物が多い、言ったことをすぐに忘れる、落ち着きがない、片付けできない、完璧主義、繊細、IQ高い、他人の感情が理解できない・・・
忘れ物が極端に多い方には出会ったことありませんが、言ったことをすぐに忘れるとか完璧主義は割といたと思います。
特に完璧主義は口論になりやすいので発達障害関係なしに本当に厄介です。
個人の性格や育った環境も影響あるでしょうが、毒親も発達障害の可能性が高く、毒親育ちの方も少なからずその傾向はあるのかな?と思うことがあります。
とはいえ、発達障害であっても単調作業が得意だったり、教え方が上手かったり、絵を描くことが得意だったり・・・と何らかの優れている面はあります。
自分の才能を生かし、健常者以上に優秀な方もいらっしゃいますし、健常者でも仕事が出来ない、厄介者扱いされているなんてこともあります。
症状によっては住み分けた方が良い場合もあるでしょうが、基本的には住み分けしない方が良いと私は思います。
住み分けではなく一人一人の適性に合った割り振りをきちんと行い、苦手なことが同じ同士はくつけないようにすればトラブルは減ります。
たとえ周りより劣っていることがあってもどこか優れた面はあります。
皆が皆、苦手なことも出来るようになる必要はなく、お互いの得意不得意を補えるような環境こそ、誰もが生きやすくなると思うのです。
そして得意不得意があるからこそ、貢献できたことへの喜びを感じたり、優しさを学ぶこともできます。
自分の好きなことや得意なことでサポートできると嬉しいと思うことはありませんか?
また、苦手なことがあるからこそ得意な方からサポートを受け、感謝の念が生まれます。
たとえば電話応対は苦手だけど単調作業が得意なAさんと単調作業が苦手で電話が得意なBさんがいたとします。
であればAさんはBさんの苦手な単調作業をやってあげ、苦手な電話応対はBさんが対応してあげれば良いのです。
逆に何でも簡単に自分で出来てしまえばそのような感情は生まれません。
もっと言ってしまえば誰しも苦手なことがあるからこそ、苦手な側の気持ちが理解でき、そこから優しさを学べると思うのです。
ドラえもんの出木杉君も何でも自分で簡単にやってのけてしまうところから出来ない子の気持ちに寄り添うことが出来ません。
「簡単すぎてすぐ飽きちゃう」等・・・自分では傷付けているつもりはなくてもこのような言動により相手を傷付けてしまっているのです。
これが長所の副作用・・・欠点ではあるのですが、確かに自分が簡単に出来るようなことだとそう思ってしまう気持ちはわからなくないです。
出木杉君の場合は苦手なことがほとんどなく、得意なことが多いからこそ、なおさら傷付くのだと思います。
そしてのび太君は出来ないことは多いけど、人を思いやる優しさがあります。
しずかちゃんがのび太君を選んだのも「ついていないと危ないから」ばかりではなく、「優しさ」という人柄もあったかもしれません。
運動が苦手、あるいは手先が苦手な程度であれば周りがフォローしてあげれば良いのです。
最近では算数の授業ですら大人のサポートが数名ついている学校もあるようです。
話すのが苦手であれば話好きな子がたくさん話し掛けてあげれば良いのです。
そこに限界を感じたら無理に話し掛けなくても良く、困っていればサポートする程度でも構いません。
確かに大人になって働くようになったら困ることもあるかもしれません。
私もいかにもADHDな女性社員とペアで仕事をしたことがあり、大変な思いをしたことがあります。
机の上はいつも書類まみれで取引先にFAXする資料をなくされたり、とにかく説明が下手で何を指示しているのかわからない、相手の感情がわからないと・・・散々でした。
そのような上司がいる職場に限って上長もお話にならないぐらい話を聞かないお局様タイプでなおさら悪循環でした。
幸い、その社員は半年ぐらいで異動になりましたが、このようなトラブルにならないためにも総合職的な仕事の仕方ではなく、一人一人の適性に合ったポジション、仕事を振っていただきたいとつくづく思います。
よく発達障害の方と関わりたくないという話を目にしますが、それは私も否定出来ません。
感覚が合い、お互いの得意苦手をフォロー出来る関係ならともかく、そうでないなら申し訳ない話、トラブルになりやすいのであまり関わりたくないというのが本音です。
特に苦手なことが同じ同士でペア組んで仕事なんてことになったらもう仕事が成立しません。
そして相手の気持ちや感情がわからない方は発達障害関係なしにいますが、どんな理由であれ、そのような方達も接しているとイライラするので本当に無理です。
とはいえ、好きで発達障害になった訳ではない、悪気があって迷惑掛けている訳ではない、自分でわかっていてもどうして良いかわからないというのは自分でも感じるのでそこが辛いところです。
ただそうは言っても本当に無理なら距離を置いても構いません。
相手だって自分のことを嫌いと思っている人となんて関わりたくないでしょうからお互いにとってその方が良いと思うのです。
しかし完全に存在を無視とか意地悪等をするのではなく、必要最低限の関わりはしつつ、距離を置くということを徹底していただきたいです。
また、努力しない発達障害は嫌いという話もありますが、努力ってどんな努力でしょうか?
健常者であっても苦手なことは誰しもありますが、それを努力で何とかしろなんて言われたらどうでしょう?
実際努力しても違う方向に行ってしまったり・・・ということもあるので必ずしも周りが望むようになるとは限りません。
努力しても出来ないことはあるのですから出来ないことまで押し付けないでいただきたいです。
このようなことは極端な話、鳥に対し、魚のように泳げと言っているのと同じようなことです。
鳥は泳げなくても飛ぶことが出来るのですからそれで良いのです。
発達障害に限らず、○○障害・・・という言葉が増えてきましたが、それとともに世の中、だんだんと便利な時代になって行き、令和の今となっては通用しないことが増えてきたのも進化の上で必要だったのです。
特にインディゴチルドレンは古い価値観を破壊するという使命があるという話をよく聞きますが、自分で破壊とか使命まで思わなくてもそのような役割というのはつくづく感じます。
私は物心ついたころから出来ないことが多かったりで特に学生時代は周りから迷惑と思われることが多々ありましたが、その分、嫌がらせやら今となっては許されない仕打ちも受けているので謝罪する気持ちは一切ありません。
そして「出来ないものは出来ないからどうしようもない・・・それよりそうなってしまう環境や考え方が問題なのでは?」という発想もありました。
自分では破壊とか使命という発想は全くなく、無意識にそのような考えだったという感じですが、結果的に誰もがより生きやすい時代になって行くために必要な発想だったんですよね・・・
振り返ると昔は今ほど選択肢がなく、あったとしても世間体等から選びづらかったり、何事も平均的な能力を求められるような場面が多かったり、人やモノ・・・あらゆる面で余裕がなかったりと・・・どこを取っても今より不便で生きにくい時代でした。
しかし出来ない、不便だからこそ、次々と便利なものが開発されたり、環境やら考え方も変わって来ました。
そう考えると私は本当に生粋のインディゴと思っています。
障害とは進化です