The Space of Truth

自分なりの考え方等を綴っています。

「お変わりありませんか?」に返す言葉

以前、朝の送迎でデイの方から「お変わりありませんか?」とよく聞かれることがありました。


母曰く、「お変わりあったら行きません」なのでそう言われてしまうとどう返して良いかわからないようです。


私の場合、そのまま流れ的に「ないです」と言ってしまいそうですが、よく考えるとそうだよなって・・・

 

実際、「お変わりあったら行きません」とハッキリ返した結果、相手はそれ以上、どう返して良いかわからず、無言になってしまったようです。


確かにそれ以上、どう返して良いかわからないってのも頷けます。


送迎の際の定型的な声掛けなのかはわかりませんが、デイのように体調悪ければ行かないようなところに行くのであれば「今日は寒いですね」等、別の声掛けの方が答えやすいと思います。

自分の良い面は自分では気付きにくい

才能や長所等の良い面は人間誰しも持っていますが、それを自分で気付くことは難しいです。


まず才能は自分にとっては「出来て当たり前」という感じなのでなおさら気付きにくいのです。


私も仕事が覚えるのが早いことも周りから評価されて気付いたことです。


そもそも仕事を覚えないと仕事にならない訳で出来て当たり前というか・・・昔から「私の出来ることはみんなが当たり前に出来ること」という強い信念があった私としてはなかなか認められることではありませんでした。


10数年仕事をして来た頃、エンジニア出身の上長から仕事の覚え方について、「組み立てがきちんとできている」と言われたことがありました。


私としては頭の中で組み立てている訳ではない・・・言葉よりも感覚で「こうすれば良いだろうか?」という感じなのですがね・・・


今までとはちょっと違った言われ方ということもあり、その辺りでようやく認めることが出来るようになりました。

 


才能に限らず長所もそうです。


長所も「自分ではそれが当たり前」と思ってしまうので周りからは長所と思われても自分では気付きません。


気付かない以前にそれが良いこととは思っていない・・・寧ろ短所とも思っているかもしれません。


例えば真面目なところが長所と言われたとします。


しかし自分では真面目過ぎて融通が利かない、一緒にいてつまらない等・・・次々と短所が出て来るかもしれません。


短所は長所の副作用でもあるのでバランスによっては悪目立ちしてしまうこともあります。


そう考えるとあまり抽象的過ぎる良い面は認めることが難しいかもしれません。


また、才能も長所もAさんからは良い面と思われてもBさんからはそうは思わないという感じに感じ方が人それぞれなのでその点でも認めにくいということもあるでしょう。

 


良い面を認めるかどうかは言ってきた相手や内容にもよるでしょうが、自分でしっくりこなければ無理に受け取る必要はないと私は思います。

発達障害の方は住み分けした方が良い?

タイトルのような話を目にしたことがあります。


学校の場合、症状によって特別支援学級のように住み分けさせていることもありますが、これってどうなんだろう?と思うことがあります。


どこからどこまでで住み分けしているのか?はわかりませんが、発達障害は厳密には凹凸症候群・・・得意と苦手の差が激しいという感じで障害と呼ぶにはちょっと違うような気がします。

 

なので本当に発達障害という言葉は大嫌いですし、なくなって欲しいですね・・・


私の時代は「知的な遅れ」、「勉強についていけない」、「授業中でも落ち着きがなく周りを困らせている」というようなことがなければ普通学級だったのかもしれません。


私もそれらが問題なかったので普通学級で済んでいましたが、極度の運動音痴で手先の不器用さ、場面緘黙のような症状もあったので今の時代の子供だったら特別支援に住み分けられていたかもしれません。

 


今まで様々な方と出会いましたが、健常者であろうと多かれ少なかれ誰しも発達障害の特性は何かしら持っているのでは?と思うことが多々あります。


忘れ物が多い、言ったことをすぐに忘れる、落ち着きがない、片付けできない、完璧主義、繊細、IQ高い、他人の感情が理解できない・・・


忘れ物が極端に多い方には出会ったことありませんが、言ったことをすぐに忘れるとか完璧主義は割といたと思います。

 

特に完璧主義は口論になりやすいので発達障害関係なしに本当に厄介です。


個人の性格や育った環境も影響あるでしょうが、毒親発達障害の可能性が高く、毒親育ちの方も少なからずその傾向はあるのかな?と思うことがあります。


とはいえ、発達障害であっても単調作業が得意だったり、教え方が上手かったり、絵を描くことが得意だったり・・・と何らかの優れている面はあります。


自分の才能を生かし、健常者以上に優秀な方もいらっしゃいますし、健常者でも仕事が出来ない、厄介者扱いされているなんてこともあります。


症状によっては住み分けた方が良い場合もあるでしょうが、基本的には住み分けしない方が良いと私は思います。


住み分けではなく一人一人の適性に合った割り振りをきちんと行い、苦手なことが同じ同士はくつけないようにすればトラブルは減ります。


たとえ周りより劣っていることがあってもどこか優れた面はあります。


皆が皆、苦手なことも出来るようになる必要はなく、お互いの得意不得意を補えるような環境こそ、誰もが生きやすくなると思うのです。


そして得意不得意があるからこそ、貢献できたことへの喜びを感じたり、優しさを学ぶこともできます。


自分の好きなことや得意なことでサポートできると嬉しいと思うことはありませんか?


また、苦手なことがあるからこそ得意な方からサポートを受け、感謝の念が生まれます。


たとえば電話応対は苦手だけど単調作業が得意なAさんと単調作業が苦手で電話が得意なBさんがいたとします。


であればAさんはBさんの苦手な単調作業をやってあげ、苦手な電話応対はBさんが対応してあげれば良いのです。

 


逆に何でも簡単に自分で出来てしまえばそのような感情は生まれません。


もっと言ってしまえば誰しも苦手なことがあるからこそ、苦手な側の気持ちが理解でき、そこから優しさを学べると思うのです。


ドラえもん出木杉君も何でも自分で簡単にやってのけてしまうところから出来ない子の気持ちに寄り添うことが出来ません。

 

「簡単すぎてすぐ飽きちゃう」等・・・自分では傷付けているつもりはなくてもこのような言動により相手を傷付けてしまっているのです。


これが長所の副作用・・・欠点ではあるのですが、確かに自分が簡単に出来るようなことだとそう思ってしまう気持ちはわからなくないです。


出木杉君の場合は苦手なことがほとんどなく、得意なことが多いからこそ、なおさら傷付くのだと思います。

 

そしてのび太君は出来ないことは多いけど、人を思いやる優しさがあります。


しずかちゃんがのび太君を選んだのも「ついていないと危ないから」ばかりではなく、「優しさ」という人柄もあったかもしれません。

 


運動が苦手、あるいは手先が苦手な程度であれば周りがフォローしてあげれば良いのです。


最近では算数の授業ですら大人のサポートが数名ついている学校もあるようです。


話すのが苦手であれば話好きな子がたくさん話し掛けてあげれば良いのです。

 

そこに限界を感じたら無理に話し掛けなくても良く、困っていればサポートする程度でも構いません。

 


確かに大人になって働くようになったら困ることもあるかもしれません。


私もいかにもADHDな女性社員とペアで仕事をしたことがあり、大変な思いをしたことがあります。


机の上はいつも書類まみれで取引先にFAXする資料をなくされたり、とにかく説明が下手で何を指示しているのかわからない、相手の感情がわからないと・・・散々でした。


そのような上司がいる職場に限って上長もお話にならないぐらい話を聞かないお局様タイプでなおさら悪循環でした。


幸い、その社員は半年ぐらいで異動になりましたが、このようなトラブルにならないためにも総合職的な仕事の仕方ではなく、一人一人の適性に合ったポジション、仕事を振っていただきたいとつくづく思います。

 

 

よく発達障害の方と関わりたくないという話を目にしますが、それは私も否定出来ません。


感覚が合い、お互いの得意苦手をフォロー出来る関係ならともかく、そうでないなら申し訳ない話、トラブルになりやすいのであまり関わりたくないというのが本音です。

 

特に苦手なことが同じ同士でペア組んで仕事なんてことになったらもう仕事が成立しません。

 

そして相手の気持ちや感情がわからない方は発達障害関係なしにいますが、どんな理由であれ、そのような方達も接しているとイライラするので本当に無理です。


とはいえ、好きで発達障害になった訳ではない、悪気があって迷惑掛けている訳ではない、自分でわかっていてもどうして良いかわからないというのは自分でも感じるのでそこが辛いところです。


ただそうは言っても本当に無理なら距離を置いても構いません。


相手だって自分のことを嫌いと思っている人となんて関わりたくないでしょうからお互いにとってその方が良いと思うのです。


しかし完全に存在を無視とか意地悪等をするのではなく、必要最低限の関わりはしつつ、距離を置くということを徹底していただきたいです。

 


また、努力しない発達障害は嫌いという話もありますが、努力ってどんな努力でしょうか?


健常者であっても苦手なことは誰しもありますが、それを努力で何とかしろなんて言われたらどうでしょう?


実際努力しても違う方向に行ってしまったり・・・ということもあるので必ずしも周りが望むようになるとは限りません。


努力しても出来ないことはあるのですから出来ないことまで押し付けないでいただきたいです。

 

このようなことは極端な話、鳥に対し、魚のように泳げと言っているのと同じようなことです。


鳥は泳げなくても飛ぶことが出来るのですからそれで良いのです。

 


発達障害に限らず、○○障害・・・という言葉が増えてきましたが、それとともに世の中、だんだんと便利な時代になって行き、令和の今となっては通用しないことが増えてきたのも進化の上で必要だったのです。

 

特にインディゴチルドレンは古い価値観を破壊するという使命があるという話をよく聞きますが、自分で破壊とか使命まで思わなくてもそのような役割というのはつくづく感じます。

 

私は物心ついたころから出来ないことが多かったりで特に学生時代は周りから迷惑と思われることが多々ありましたが、その分、嫌がらせやら今となっては許されない仕打ちも受けているので謝罪する気持ちは一切ありません。


そして「出来ないものは出来ないからどうしようもない・・・それよりそうなってしまう環境や考え方が問題なのでは?」という発想もありました。


自分では破壊とか使命という発想は全くなく、無意識にそのような考えだったという感じですが、結果的に誰もがより生きやすい時代になって行くために必要な発想だったんですよね・・・

 

振り返ると昔は今ほど選択肢がなく、あったとしても世間体等から選びづらかったり、何事も平均的な能力を求められるような場面が多かったり、人やモノ・・・あらゆる面で余裕がなかったりと・・・どこを取っても今より不便で生きにくい時代でした。


しかし出来ない、不便だからこそ、次々と便利なものが開発されたり、環境やら考え方も変わって来ました。


そう考えると私は本当に生粋のインディゴと思っています。

障害とは進化です

無視された、急に冷たくなった、距離を置かれたというのもいじめになる?

いじめと思う基準はそれぞれかと思いますが、このような場合もいじめになるのでしょうか?


・無視された
・急に冷たくなった
・突然話さなくなった
・距離を置かれた

 


前はそれほど気にならなかったけどだんだんと嫌いになってしまったということもあります。


何かのやり取りを通じて嫌いになってしまったということもあります。


嫌いという訳ではないけどもっと自分に合う友達が見つかり、離れて行ってしまうということもあります。

 


いくら今まで仲良くしていても何らかのきっかけや考え方の変化で今挙げたようになることは比較的よくあることと思います。


学校では「みんな仲良く」という言葉は誰しも一度は聞いたことあるかと思いますが、「どう距離を取れば良いか?」なんてことは学びませんでした。


そもそも「みんな仲良く」とはどのような意図で教えているのか自体、謎ですし、教える側も本来の意図をよく理解していないかもしれません。


仮に教える側が本来の意図を理解して教えていたとしても言葉が曖昧過ぎて受け取り方は分かれるでしょう。


特に子供の頃は距離の取り方がわからず、相手を傷付けてしまい、いじめと受け取ってしまうということもあると思います。


私としては聞こえるように悪口を言ってきたとか嫌がらせのようなことをして来たらいじめと判断しますが、そうでなければいじめではない可能性が高いです。

 

無視も完全無視となってしまえばいじめになるでしょうが、いつも答えにくい質問ばかりしてくるとかでどう反応して良いかわからずそうなってしまうこともありますし、時折反応するのであれば距離を置きたいためにそうしていることもあります。


その距離を置きたい理由は色々あるかと思いますが、理由を言ってしまうと相手を傷付けてしまうこともあるのでそうせざるを得ないことはあります。


よく「理由を聞いてみたら?」という話も聞きますが、言いづらく、相手も回答に困ることもあるでしょうし、言われたところでショックを受ける可能性もあるので去る者後を追わず・・・聞かない方が良いと私は思います。


また「どこか悪いところがあるなら直すから・・・」はあまり意味がありません。


人の性格はそう簡単には変わりませんし、直そうと思っても時間の掛かることです。


あるいは他の方から見れば直さなくて良いと思うことかもしれません。


例えば距離を置きたい理由がキツイことでもハッキリ言うからだとします。


しかし人によっては「ハッキリ言ってくれる方が好き」と思う方だっていらっしゃいます。


受け入れてくれる方がいらっしゃるのであればそれで十分であり、後は自分がそのままで良いか?だと思います。

 


確かにどんな理由であれ、突然距離を置かれたりすると寂しいですが、そうなったらあなたもその相手を嫌いになれば良いのです。


ハッキリ言ってそんな失礼な人、こっちからお断りぐらいで良いのです!


私も振り返ってみるとそのような相手はいまいち合わないか、元から嫌いだったけど仕方なく付き合っていたのどちらかであることがほとんどでした。


嫌いになれないこともあるかもしれませんが、いずれ嫌いになるようなきっかけが訪れるかもしれませんし、もっとふさわしい相手が見つる可能性もあるので固執しなくて良いです。


もっと言ってしまえば嫌いになれないぐらいに良い方は距離を置かれるより物理的に離れることになるということがほとんどな気がするのでその点でも「固執するほどの価値ある人だったのか?」ぐらいで良いかもしれません。


特に子供の頃は視野が狭く、表現力や考えが未熟だったり、感情をうまくコントロール出来なかったりで傷付けたり傷付けられたりということが出やすいのも仕方のないことです。


しかし様々な人間関係を経て「どう対応するのが良いか?」等をだんだんと学んでいき、大人になっていくのです。


大人になれば「もう子供じゃないんだし、最低限の関わりで良い」と思うようになって来るでしょうが、それでも仕事上、関わりの多い方となるとそこで悩むこともあります。


私も嫌いな方は視界にすら入れたくないので最低限の関わりで対応していますが、その相手とペアで仕事をしていたりで関わりが多い方となると距離を置くことは難しいです。


嫌いな方には「適当に接すれば良い」という話もありますが、あまりに適当に接されるとコミュニケーション関係に問題が出てしまい、結果的にそれが自分に返ってくる、他の方に負担が掛かることもあります。


特に職場では最低限の連絡や報告だけはきちんと行った方がトラブルになりにくく、結果的に関わりが少なく済みます。

 


また、特に理由はなくても何となくのすれ違いで話さなくなってしまったということもあります。


しかしお互い嫌いでなければいずれ何らかのことがきっかけで元のさやに戻ります。


私も若い頃、職場でとても仲良くしていた方と突然、話さなくなってしまったということがありましたが、いつの間にか元に戻りました。


話せない間、他の方が「私も同じことされたことあるけどそういうのって大人げないよね」とフォローしてくれたのですが、大人げないのではなく、ちょっとのすれ違いでだったのです。


お互い小心者で話すきっかけがなかなかつかめなかったようで話し掛けづらくなってしまったという感じでした。


逆にそのまま上手く行かなければその相手との学びは終わり・・・もうあなたにとって必要のない人間関係なのです。

 


ちなみに学生時代の人間関係、上手く行かなくても問題ありません。


子供の頃から生涯の友達に出会えることもあるでしょうが、そう多くはありません。


学生のうちは同年代しか関わりがなく、お互いが未熟なので良い関係を築くこと自体、難しいです。


特に公立の小中学校であれば同じ学区の子達が集められた環境なのでなおさらな話です。


卒業すれば疎遠になりますし、卒業後も連絡取るような関係であっても環境や考え方の変化から疎遠になることがほとんどです。


子供の頃は性格が悪く、大人になったらそんな自分が恥ずかしくて同級生に会いたくないという方もいらっしゃるぐらいです。


元からの性格や価値観の違い、育った環境の影響もあるので個人差はありますが、子供の頃から人格者のように優れた子なんてほとんどいませんし、そのようなタイプは特定の仲間と群れるようなことはせず、一人でいても平気なタイプです。

 

とは言っても特に小中学生ぐらいだとどうしても「学校がすべて」という感じに周りからの圧力やら恐怖心やらでなかなか理解できないでしょうが、その辺を上手く伝えられる親等の身近な存在がいれば考え方は変えやすいかもしれません。

文章書くのが苦手な方へ・・・

私は文章を書くことがすっごく苦手だったので同じように苦手な方の気持ちはわかるかな?ということでちょっとお力になれたらと思います。

 

何故、文章を書くのが苦手か?と言うと・・・


・何書いて良いかわからない
・自分の文章を公表するのが恥ずかしい
・語彙力や文章力がない
・言葉を選ばないといけない(特に仕事の場合)

 


基本的に「自分の思ったことを素直に書けば良い」それだけです。


言葉で書くのは簡単ですが、それが出来ないから困っているんですよね・・・


確かに私もそれが出来ませんでした。


何故か?って・・・

 


まず学校で作文の宿題を出された経験は誰しもあるでしょうが、大抵、課題が決められますよね?


その課題が自分に興味がない事柄となれば思いつかないのはどうしようもありません。


読書感想文なんかは好きな本を読んで書くということもあったでしょうが、本嫌いな子には本を探すことや読むことさえ困難だったと思います。


私も本を読む以前にどんな本を読んで良いのかすらわからずだったので本を選ぶことすら出来ませんでした。


もうこれは適当にやり過ごすしかないかもしれません。


夏休みとかで読書感想文の宿題が出た際は過去の感想文をローテーションして使うとかでごまかすのも1つの手かもしれません。


文章を書けるようになった今でも興味のない事柄は書けません。


最初のうちは今日の出来事や感情を吐き出す日記あたりが始めやすいと思います。


自分の感情等を日記に書くことは気付きになることがあり、口頭でも吐き出せる練習にもなるのでおすすめです。

 

私もブログの他にも色々書いていますが、書いているうちに「そういえばこれって前に書いたこととちょっと矛盾しているかも?」、「前にああいうこと書いたけどこのようなこともあるからその場合はどうなんだろう?」等、改めて考えさせられるようなこともあります。

 


そして恥ずかしいという方は誰にも見られない環境で書けば良いのです。


ノートとかスマホ等のアプリに書くとか・・・


あるいは誰にも見せないような設定でブログを書くという手もあります。


周りは意外と気にしていないとは言ってもそう簡単には払拭できないと思うのでそこは無理する必要はないと思います。

 


それから下の2つですが、まず文章の組み立て方等については書いて慣れるしかありません。


小学校の頃、「作文は書いていると上手くなる」という話を聞きましたが、確かにそれはあります。


とにかくたくさん書いていれば書くコツはつかめるようになるでしょうし、最初の頃よりは上手くなってくると思います。


なので質とか読みやすさは気にせず、とにかく自分の興味ある事をたくさん書き続け、ある程度慣れてきたら修正していくぐらいで良いと思います。


私も文章の組み立て方とか今でもあまりよくわかっていなかったりなので違和感なくなるまで何度も読み返しています。


どちらかというと書くよりも確認の方に時間が掛かっているという感じです。


公開後に気付いて修正したり、削除ということもあります。


また、難しい言葉を使うよりも誰もがわかるような言葉を使った方が理解されやすいです。


私もちょっと難しい言葉が出て来ると都度googleで調べるのですが、その手間が面倒だったりします。


本当に表現力のある方はその点を理解されているので難しい言葉はむやみに使いません。


よく頭の悪い人ほど難しい言葉を使いたがると言いますが、頭が悪いより読書家に多い気がします。


普段からたくさん本を読むので自然と難しい言葉に慣れてしまい、難しい言葉があっても気付かない感じなのかもしれません。

 


外部に提出するメールやレポート等であれば色々気を使わないといけないでしょうが、そうでなければさほど気にする必要はないと思います。


私も仕事のメールやチャットなんかはいまだに何度も何度も確認しがちです・・・(-_-;)


学校の作文の授業も自由にのびのびと書けるような環境が望ましいのかな?と私は思います。


上手い下手よりも自分らしさだと思うのです。


後、発表を強制させないという環境も大事です。


私は作文を読ませられた経験はありませんが、宿題で自分の考えや古典の作品を暗記してクラス全員の前で発表させられたことがあり、これがかなり辛かったです。゜(゜´Д`゜)゜。


そこでうまく出来ず笑われたりすればトラウマになり、引きずってしまうこともあります。

 


よく本を読むことが好き=文章を書くのが得意という話を聞きますが必ずしもそうとは限りません。


私は本読むことは今でも苦手ですが、文章書くことは好きになりました。


本を読むのが好きでも文章書くのが嫌いだったり、公表することにトラウマを感じ、苦手になってしまうこともあるでしょう。

 


ちなみに私は自分の文章が上手いと思ったことはなく、得意とも思っていません。


公に出すような文章を書くのは苦手ですが、自由に文章を書くことは好きになったという感じです。


単に好きなように書いているだけなので読みやすさは全く意識していません。


読みにくくても伝わる方には伝わる・・・そんな感じで書いています(*^^*)


プライベートで書いているブログなのですから読みにくい等の指摘は余計なお世話です。


こんな風に自由に書くことがコツかもしれません。


随分、恥ずかしいこと書いたかも?と思うこともありますが、これも愛嬌です(▼-▼*)